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HISTORY「北陸電力が誕生した日」HISTORY「北陸電力が誕生した日」

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北陸電力が誕生した日

戦時体制への移行が急速にすすむ昭和10年代、生産力拡充を合言葉に政府の経済統制は電気事業においても例外ではなく、発送電の一元統制に始まり配電統制へと進展していった。
昭和14年4月には、発送電一元化のため日本発送電株式会社が設立され、また昭和15年9月には、閣議で配電統制のための「電力国策要綱」が決定された。

このような時勢の中で、北陸地域でも、電気事業者の大同団結は避けるべくもなく、むしろ積極的な自主統合で一元化への体制をリードしようという意識のもとに、昭和15年12月北陸地域の電気会社による合同準備委員会が発足した。
幾多の曲折の末、北陸電力の前身である日本海電気を中心に統合が進められ、昭和16年8月1日、北陸合同電気株式会社が設立された。
この自主統合は、北陸地域の電気事業者12社の大規模な合併であるとともに、後に北陸配電、さらには北陸電力ができる大きな礎石となるのであった。

しかし、このような北陸地域独自の電気事業の存亡をかけた大英断にもかかわらず、同年8月30日、政府から公布された配電統制令は、全国を8地区に分割し、しかも北陸は東海と合わせ中部地区に含む、とするものであった。
このとき、全国8地区分割に対し、あくまで「北陸独自の特殊性」を説き、北陸配電の独立を主張したのは山田昌作(当時北陸合同電気社長……のちの北陸電力初代社長)であった。

山田昌作は、政府の8地区分割の方針にもとづき設置された中部配電設立準備委員会において東海・北陸の統合準備が進められるなか、「北陸独自の特殊性」すなわち、豊富な電源、低廉な労働力など自然的特異条件を強調し、自主的統合の既成事実を楯に熱心に北陸分割の妥当性を主張したが、当局の耳を傾けさせるまでには至らなかった。

しかし山田昌作は、『北陸独自の特殊性を極度に活かすことが結局は国力の増強に必ず貢献する』という不屈の信念で引き続き昼夜なく陳情を重ね、血の滲むような努力をつづけた。幸いにして逓信大臣官邸において北陸配電独立の必要性について意見を開陳する機会が与えられ、そしてついに数日後、逓信省の配電統制要綱に「当分の間北陸地方を中部配電より分離せしむることを得る」旨の一文を挿入させることに成功したのであった。

中部配電設立準備委員会から北陸地方が分かれたのは、設立予定期日までわずか数ヶ月を残すのみの時であった。文字通り“驚天動地”の山田昌作の努力が実を結び、昭和16年9月6日北陸配電株式会社の設立命令が北陸合同電気を指定会社として交付された。
翌昭和17年4月1日北陸配電株式会社が設立され、社長には山田昌作が選任された。資本金1億3千8百万円、まさに苦難の末の誕生であった。

戦後、昭和26年5月1日、電気事業再編成による発送電一貫経営の方針のもとに日本発送電とともに北陸配電が解散し、北陸電力に生まれ変わったわけであるが、もし昭和17年に北陸に独立の電気会社の存在が認められず、単なる「中部配電北陸支社」にとどまっていたならば、北陸電力の誕生もなかったであろう。
北陸の一体性とともに、北陸経済の発展を思う時、この歴史的転換の意義の深さをあらためて感ずるとともに、「北陸配電の独立」にかけた先達の情熱を忘れてはならない。